Reikibudo’s blog

オーストラリア バス旅 超意識の旅  現在地:NSW州 Mount Warning

マットとコートニー

先週1週間は

コテージ生活で夜型へと変化した

生活リズムを立て直すのに

ダラダラとバスの中で過ごし、

特に何もせず、

デジタルデトックスという

大仰な名の「調整」をしていた。

 

そのうち、Twitterを再開し、

アメブロを再開し、

はてなが最後の再開となった。

 

9月の訪れとともに

オーストラリアにも春がきた。

 

もこもこジャンパーともお別れし、

本日は久しぶりに半袖を着ている。

 

子供たちは

プールでサーフィンレッスンを受けた。

 

運のいいことに、

私のバスの隣にトラックのカップルが来て、

ライフセーバーの資格を持っており、

サーフィン教室でも教えていたということで、

ご好意に甘えまくって、

子供たちにパドリングの

レッスンをつけてもらった。

 

末はサーファーか。

 

ところで、

アメブロの方にも書いたのだが、

このカップルといると

すこぶる心地がいい。

 

たまにこういう感覚があるのだが、

本当に久しぶりで

これがいわゆる

ソウルメイトなのかとも思う。

 

先日はこの二人が所有する

スポーツカーの試乗までさせてもらった。

 

マットは長年世界中を旅して、

どういうわけか南米の紛争に巻き込まれ

アメリカとメキシコ国境の刑務所に

3年服役しないといけなかった

とかいう話も聞いた。

 

手違いが判明しなかったら

25年服役予定だったらしく、

人生は予想がつかないものだなと

しみじみと語っていた。

 

その後、

オーストラリアに帰国した頃には

弟と妹が自死したのをきっかけに

自殺防止のキャンペーンに

ボランティアで参加したそうだ。

 

そこでアプリを立ち上げ、

何億円という資金を作ったが

同時に多数の死と向き合うことになり、

心を病んで、

体にもステージ4のガンが見つかった。

 

そこからは全てを整理し、

トラックのモーターホームを買い

コートニーと一緒に旅をしているそうだ。

 

コートニーも同じ自殺防止の

キャンペーンで働いており、

そのきっかけは兄弟の死だったそうだ。

今生きている弟も

精神を病んでしまい

常に自殺の危険が付きまとっているという。

 

二人とも結構な

ハードモードなライフのようだが

底抜けに明るく、今を生きている。

 

以下、アメブロの内容を転載する。

 

初対面なのに、

なぜか全てをぶちまけられるような安心感。

執着や遠慮もほとんどなく、

すぐに打ち解けて

食べ物の行き来も始まる。

子供も懐く。

 

とても楽だ。

 

周りの人々は自分の波動を反映している。

私は全身末期癌状態ではないが

私のどの波動が反映して

末期癌の人を引き寄せたのかと思ったが、

 

程なくそれは癌に力を与える行為でしかない

 

と氣付き、やめた。

 

癌を深刻に考えるほどに

癌に力を与えることになる。

 

実際、体を切って開けるまで、

癌細胞というものも存在しない。

 

観測者問題だ。

量子は観測していないところでは波の状態であり

私たちの誰か(この場合は医者)が

体を切って開けない限り

「癌細胞」というものも然り、

波の状態でしかないのだ。

 

 

切って初めて、そこに

粒の状態になった「癌細胞」が姿を現す。

 

だから体を切らない状態で行う

エネルギーワークが効く。

体の異常な周波数帯域を検知し、

そこに流れて正常な周波数帯に戻していく。

 

私見だが将来的には、切ったり貼ったりの

西洋医学半減するのではないかと思っている。

エネルギーワークと併用という形が

一番受け入れられやすいのかもしれない。

 

ただ、現段階では

エネルギーワークなるものも

それほど周知されているわけでもなく、

効果に対しても懐疑的な人がまだまだ多い。

 

その意識状態では

効くものもなかなか効かない。

意識が世界を作るからだ。

 

今後、どう既成概念を壊し

集合的無意識にエネルギーワークの効果を

落とし込んでいくかが私の課題である。

 

こんなことを考えていた。

 

マットの言葉で刺さったものがある。

病氣になって初めて氣付くことがあるそうだ。

 

人生は一度しかない。

宣告を受けてから生に向き合って

納得のいく人生を送ったと

死ぬときに思えればそれが最高。

 

私たちは果たして

今を一生懸命生きているのか? 

 

なぜ、病氣や死をネガティブに捉えるのか?

 

それは残された側が

可哀想に感じるからだそうだ。

 

例えば親や子が死ぬ。

私たちは、親や子のために泣くのではなく

残された自分が可哀想で泣く。

喪失感で泣く。

その人のために泣くのではない

 

という話を聞いたときに

なるほどな、と思った。

 

自分の周りから人やものが消えていく。

孤独感。

 

それ以上の恐怖はないのかもしれない。

 

でも、

本質は自分の内側にあり、

そこは常に孤独であるが

同時に愛にも溢れる場所である。

 

こんな不思議な世界を感じるだけで

人はそんな孤独や恐怖から

一瞬にして抜け出すことができるのに。

 

あなたはどんな生き方をしたいですか?

 

それではまた!

今日も読んでくれてありがとう

 

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