Reikibudo’s blog

オーストラリア バス旅 超意識の旅  現在地:NSW州 ペリカン・スワンシー

ズレた消防学校時代(昔話)

前回までのあらすじ

消防官採用試験1、2はこちら


さて、採用試験は合格した。

その流れ(?)で

ニュージーランドに行ったところまで

前回の記事に書いた。

 

髪色は明るい栗色に染め、

左耳にはピアスの穴5つ。

高校時代からパンクロックが好きだったので

19歳から23歳までの私は

すこぶる派手な見た目をしていた。

 

そんな見た目通りニュージーランドでは

はっちゃけた留学生活を送った。

台湾人と韓国人と

ドイツ人とスウェーデン人と仲良くなった。

 

ところが、私は一つ重要なことを忘れていた。

拝命前の事務手続きだ。

制服や作業服の採寸もある。

 

これが2月ごろに行われることを

まるっと失念しており、

3月までニュージーランドで遊ぶ予定だった。

 

あろうことか

母からの国際電話でそのことに氣づき、

予定を繰り上げて帰国した。

 

TPO

その状態でよく考えず、

事務手続きと採寸に行った。

 

髪の毛、茶色いまま😆

 

念のためスーツで行こう

 

という考えが

思い浮かんだ事が幸いであったw

 

さて、集合場所は消防本部。

そこには同期の桜となる若人が集う。

 

もうね、その中で

頭茶色いの私一人だったし、

ありがたいことに、

メガネ坊主がジャージで来てくれおり

大変心強かったのはいうまでもなのだが、

 

同期生のあの冷ややかな目は

その後長い間

忘れられないトラウマとなった。

 

勿論チクチクと吊し上げを喰らった。

服装はTPOだとよ。

教官らしき人が言う。

 

はい、すみませんとは言いつつも

心の中では

 

知るか。

制服稼業の服装にTPOもクソもあるかい。

 

と思ってたけど。

 

そんなトラウマ的体験があって、

4月1日の拝命初日には

長さ2センチの坊主頭で登庁。

ざまあみろ。

 

総代任命

その日、なぜか訓練生総代を仰せつかった。

 

私の履歴書には

「リーダーには向かない」と

明記してあったにもかかわらず。

 

事務手続きには

茶髪で現れたにもかかわらずだ。

 

君が成績が一番良かったんだよ

もう決裁通ったからよろしく

 

という教官の無慈悲な二言により

私は泣く泣く総代を引き受けることと相成った。

 

ここからズレる。

 

これが、普通の企業の新人研修なら

総代でもまだ良かった。

消防学校の総代はダメだ。

 

総代は消防学校の

初任科教養中の6ヶ月と

救急標準課程の2ヶ月間

合計8ヶ月も同期生をまとめないといけない。

 

体力もそんなに自信があるわけではない。

落伍予想ダービーの

筆頭につくくらいの勢いの者に

そもそも総代の貫禄などないのである。

 

さて、ここからの記憶は実はあまりない。

最初の方は微かに覚えている。

それが5月、6月と日を追うごとに

徐々に記憶が怪しくなっていくのである。

いずれにせよ

強烈な訓練しか記憶にないのだ。

 

それもそのはず、

4月1日の拝命時、私の体は

身長160センチ

体重52キロ

体脂肪率24%と

極めて標準的な数値だったのが、

 

初任科教養を終えた半年後には

身長159センチ

体重53キロ

体脂肪率12%にまで落ち、

 

これだけ短期間で

体脂肪率が半減すると

女性ホルモンが働きを止め

毎月一度のレディースデイなど

仕舞いにはなくなり、

骨も脆くなってくるのである。

 

身長が縮んだのも、

20キロのフル装備で長期間訓練したため、

椎間板が古い座布団のように

潰れかけたという理由による。

 

お陰様でその年は腰痛持ちになった。

 

体の変化に心がついていかない。

10代の成長期よりも遥かに

豆腐なメンタル持ちとなってしまった。

 

ここから

そんな恐ろしい消防学校での

歩みを記そうと思う。

 

4月

ジャージに運動靴の服装から訓練が始まる。

基礎体力を上げるために

近くの山に走りに行く事が多かった。

1日何キロ走るかは教官の氣分次第。

 

走行距離が10キロを超える時は

途中で倒れた訓練生が

農家のトラックの荷台に乗せられ

消防学校まで送り届けられた年もあったそうだ。

 

座学は消防法、ポンプの構造、

物理等あったと思うがあまり記憶にない。

 

5月

防火服フル装備での訓練が始まる。

空気呼吸器を背負い、

ホースを左肩に担げば

見事20kgのフル装備の完成である。

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呼吸器装着訓練のタイムを計測したりするが、

何回もやりすぎて

未だに違和感なく取り扱える氣がしている。

ロープ結索もまだ問題なくできる。

 

毎週毎週、

訓練による筋肉痛でまともに歩けぬ日が続き、

ロープ渡過、

 

懸垂降下、

 

ロープ登はん

youtu.be

などのロープ訓練のある週は

二の腕太腿、ふくらはぎは

青痣だらけとなる。

 

週末の帰宅日にすれ違う人は

まともに歩けない坊主頭の私を

DV被害者だとでも思ったのか、

二度見してくる。

 

そののち数年は、訓練塔からバンジージャンプする悪夢にうなされた。

バンジーする訓練なんて

なかったにもかかわらず。

 

また、基本的に5時終業で

校外でのランニングを終え、

消防学校に戻り、終了ストレッチをし、

教官訓辞を聞いて、

やっと終わるぞと一息つきそうなところに、

右向け右で

再び校外へとランニングが始まったりする。

 

その時の教官の一言が忘れられない。

災害に終業時間はない!

 

毎年、大多数の新人消防士の心は

これで折れる。

 

 

6月

水害対策訓練が始まる。

これが真夏のフル装備よりも地味にキツい。

 

ぬるい風と湿度の高い中、

フル合羽、静電靴(ゴム長ブーツ)

の完全防水仕様で土嚢をひたすら積み続ける。

汗の出口がないのだ。

強いて言うならば全身の汗がブーツに溜まる。

 

全身濡れネズミ状態のくせに

脱水症状であるという

傍目からすればよくわからない状態となる。

 

この頃から訓練脱落者のために、

消防学校長が「命の水」なる飲み物を

せっせとこしらえ始めるようになる。

 

2リットルのペットボトルに入れた

ぬるい水道水に

砂糖と塩を絶妙なる塩梅で溶かした

非常にまずい飲み物である。

 

ところがこの命の水が効果テキメンで

これを飲んだものは30分後に

また全速力で走り出すという奇跡の水だった。

 

私は脱落者の常連となっていき、

このまずい水を大量に飲んだ。

 

この辺りからメンタルが大幅に崩れていく。

実家で飼っていた猫も交通事故に遭って死んだ。

 

耐熱訓練もあった。

気温60度、湿度100%、照明なしの

耐熱室という名の巨大迷路に

同期生数名とともに命綱1本で放り込まれる。

勿論フル装備。

同じグループの同期生が

あまりの環境に耐えかね

面体(呼吸器のマスク)の中に

リバースしてしまったこともあった。

 

しばらくその面体は隔離された。

 

今の今まで忘れていたが、

広島の江田島にある海上自衛隊

訓練学校に研修に行ったのはこの頃だったと思う。

 

一通り見学した後、

もれなく山を走って登山させられた。

後ろから海上自衛隊の幹部らしき人が

おーい頑張れぇ

なんて声をかけてくれたが

辛すぎて返事もできなかった。

カッター(ボート)訓練も行なったが

なぜ消防隊がオールを持ってカッター訓練を

しなければいけなかったのは謎である。

 

7月

暑くなってきた。

消防学校ではこの頃、

初任科生の新人訓練を行うのと同時に、

消防隊員歴数年の若手を対象に

救助科という

レスキュー隊員養成教育が行われる。

 

これが恐ろしい。

見ているだけで吐き氣を催すのだ。

座学の多い日も、

窓の外からひっきりなしに

若い男の唸り声が聞こえてくる。

地獄の釜の蓋を開けたかのようだ。

 

この頃から昼食によく出された

サバの煮付けがカオス生み出すようになる。

 

消防学校の木はよく育つ。

それはひとえに

初任科生と救助科生の

昼食の吐瀉物の賜物だと言って良い。

 

特にサバを吐こうものなら

辺りは非常に後味の悪い地獄絵図となる。

 

ここまでくると消防学校長特製の

「命の水」もうまく感じる。

とにかく身体中の穴という穴から

液体が出ていくからだ。

 

流石に耳から何かツツーっと流れ出てきた時には

頭蓋骨を骨折して

耳から出血したのではないかと非常に慌てた。

 

そういえば恐怖の山岳訓練があったのも

この頃だと記憶している。

朝方3時半ごろ無慈悲な

非常呼集に叩き起こされ

そこから1000m級の山を登り、

登山中も担架で同期生をかわるがわる搬送する。

 

残念ながら

私は患者役になる事がなかったが、

同期の女子が患者役で搬送されているときに

疲れ果てて居眠りをしてしまい、

他の同期生にしばらく嫌みを言われていた。

 

山岳訓練中に

車の中で練炭自殺を図った男性を発見した。

救急隊と警察が来るまで

その場に留まったが、

すでにその頃、

空(うつろ)なメンタルだった私は

ご遺体を見ても感じるところがなかった。

 

登山が終われば下山は走る。

 

日が暮れる前後に

消防学校に戻ってきたのだが、

最後には足腰の立たぬ者が多く、

腰の安全帯にロープをつなげ

かろうじて歩ける者が引っ張って帰った。

 

それもそのはず

50km近く上り下りを繰り返したのだから。

 

この後血尿が出た。

 

8月

全く記憶にない。

 

ポンプ車の放水口が一口で水圧がどのくらいで・・・

と空を見つめながら

ぶつぶつ言っていたような氣がする。

 

午前中の訓練後、

汗でずぶ濡れになった

防火服を炎天下に干しておくと、

1時間でパリッパリに乾き、

ファブリーズ片手に

空な目をして廊下を移動していたような氣もする。

 

9月

8月の後半か9月の前半に休暇があって、

同期生全員と教官とで沖縄に行った。

自由時間は一人で行動した。

誰とも話したくなかったのかも知れない。

 

記憶がやや戻ってくる。

氣がつけば懸垂も

30回以上軽々とできるようになっていた。

卒業間近となり、卒業展示の訓練が始まる。

訓練の合間に行進訓練を

やったことを記憶している。

キツくはないのだが、膝の痛い日にはこたえる。


消火訓練の展示もあった。

実際に作った小屋に火を放って消火をする。

押し寄せた保護者関係者は大喝采だった。

 

卒業式

卒業生代表訓辞。

堪えていたものが一氣に溢れ出した。

泣いたのは私だけであった。

 

総代なのに自分のことに精一杯で

ほとんど記憶もない。

総代の役割は副総代の男子がほとんどやった。

全員に嫌味も言われていたと思うが

そんなこともわからなかった。

 

卒業生訓辞の添削を受ける際、

泣きながら教官に

次の年から女子を総代にするのはやめてください

と訴えた。

ホルモンバランスはぐちゃぐちゃだったと思う。

 

卒業後の同期会にも

ほとんど出席していない。

今までの人間関係で

一番ギクシャクした時はこの頃だったと思う。

 

あるいは同期生は

そんなに氣にしていないのかもしれないが、

私の合わせる顔がない。

もう連絡も取り合っていない。

 

10月・11月・12月

救急標準課程が始まる。

9月までは消防隊員の訓練だったが、

10月からは救急隊員としての訓練となった。

 

解剖生理学、

プレホスピタル医学、

外傷処置、

トリアージ

各種医療器具の取り扱い方法等

全てが新鮮で楽しかった。

 

私は息を吹き返した。

そしてここからやっと自分らしさを

取り戻す事ができたように思う。

 

そして、卒業後は救急隊に配属され、

そこから救急隊員として

数々の不思議な経験を積む事ができた。

(以下の過去記事でそのことを書いているのでお時間がある方はぜひ)


その後数年、

事務連絡や救急出動で

消防学校付近を通るたびに吐き氣を催す私を

当時お世話になった小隊長は明るくからかい続けた。

氣さくなおっさん小隊長だった。

そのお陰でいくらか楽になれた。

 

消防学校時代は辛かったけど、

この経験があったこそ

その後いろんなことに動じなくなったし、

体力もついた。

 

救急隊配属後、いい上司にも囲まれて

なんだかんだ言って私はラッキーだ。

 

***

これで3回に渡って書いた

消防シリーズはおしまいです。

お付き合いありがとうございました。

 

それではまた!

今日も読んでくれてありがとう

 

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