Reikibudo’s blog

オーストラリア バス旅 超意識の旅  現在地:NSW州 Mount Warning

戦争と呑氣な我が親族

誰が言っていたんだか、

もう記憶は定かではないが

 

アウシュビッツ強制収容所

生き残った人々は、

過酷な生活環境の中でも

花をつけた雑草の美しさや

家族や仲間との愛情に目を向け、

それを感じた時間が

絶望と恐怖の中で死んでいった人々よりも

ほんの少し長かったのだろう

 

というフレーズを先日ふと思い出した。

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8月。

日本人にとっては

お盆に重なり、

原爆の記憶や終戦記念もあるためか

集合的無意識下で

自然と生死について

そして戦争について思いを馳せるように

プログラムされているのかもしれない。

 

今日は私の親族の戦争経験談について

書いてみようと思う。

 

 

祖父1(父方)の場合・陸軍近衛第1連隊

祖父のことは2年前書いた記事があった。

米騒動関東大震災

2・26事件、中国戦線など

数々の歴史的大事件を経験し

脊椎カリエスの寝たきり生活から

精神力で奇跡の大復活を果たし、

ビジネスで成功を収めた。

 

1916年1月10日に生まれ

92年後の1月10日に没した。
 

 

祖父1の弟の場合・息子大出世

私は直接会った事はない。

祖父は終戦前に上海で祖母と出会い結婚したのち

祖母の実家がある九州へ引き上げたのだが、

祖父の弟は戦後富山に戻り、

幸せな結婚をしたそうだ。

 

そしてその息子は

兜町で伝説のトレーダーとなったそうで

小説の主人公のモデルにもなっている。

父のいとこだが、

会った事はないそうだ。

算盤、計算、経理など数字の得意な

父方先祖の遺伝子と根性が抜きん出ていたんだろう。

 

ちなみに私は数字に弱い。

祖母1(父方)の場合 ・上海ご遊学

祖母は長崎県生まれ、

生後すぐに母が亡くなり、

福岡の叔父・叔母に引き取られる。

 

戦争中に

「上海にご遊学」

という名目で疎開していた。

そこで終戦間近に祖父と出会い結婚。

終戦後、引き揚げ船で九州に戻る。

 

帰国後、

跡形もなくなった家を見て、

能天氣にも、

あらーキレイさっぱりなくなったねぇ。向こーうまで見える❤️

と極めて軽いノリで

祖父と一から家を建て直し、

石鹸屋の商売を始める。

朝鮮特需で手広く商売。

ちなみに、祖母の若い頃の写真を見たが

松浦靖子さんにそっくりだった。

 

祖母1の妹、大オバの場合・奇跡の生き残り

大オバは祖母1の従姉妹にあたるが、

大オバの母も生後すぐに病で亡くなり、

祖母1と同じく福岡の叔父・叔母に引き取られる。

 

ご遊学中の祖母1と違い、

幼かった大オバは日本に残った。

その頃、大オバの両親(私の曾祖父母)は

生長の家」という

宗教に入信していた。

 

甘露の法雨」という、

キリスト教で言うところの聖書のような

経典がある。

 

大空襲の際、どういう経緯か

よくわからないのだが、

 

大オバの両親は

その超特大版の甘露の法雨の上に

大オバを座らせたが、

あまりに経典が大きく重く、

抱え切れないとのことで、

大オバと経典を放置してそのまま逃げた

という解釈でほぼ間違い無いと思う。

 

空襲の後、両親が戻ると、

経典と大オバの周りは丸焼けで、

奇跡的に経典と大オバはキレイなままだったらしい。

 

本当かよ、と思うが

大オバ本人がそう言っていた。

 

その後、生長の家が代替わりしたところで

生長の家からは脱退したのだが、

大オバは甘露の法雨のご利益を信じ切っており、

特大経典を今も大事に扱っているそうだ。

 

私も甘露の法雨自体には

何かあると思う節がある。

今もお守りに使っている。

詳細記事はこちら↓

 

遠縁の親戚のお爺さん場合・海軍特攻隊

このお爺さんは私と直接の血縁はないが

話が面白いので書いてみる。

 

戦争中は、海軍の特攻隊にいた。

度重なる厳しい訓練を経て、

鹿児島の鹿屋基地から沖縄に向け

19歳の若さで特攻出撃した。

 

だが、運よく特攻機の故障で

出撃からしばらくして不時着。

再教育を受け次の出撃を待つ間に終戦

九死に一生を得た。

 

終戦後は、

戦争中に閉じ込めていた

元来の明るさと好奇心が爆発したのか

マジシャンになった。

 

私も子供の頃、

このおじいさんのマジックショーに

何回か連れて行ってもらったが

親戚にマジシャンがいる!

っていうことだけで、

すごく得意氣だったことを憶えている。

 

このおじいさんの

19歳の特攻出撃前の白黒写真が

10年ほど前に、

カラー復刻してみた

的なノリでキレイに色づけされ

年賀状となって届いたことがあったが、

なかなか良かった。

 

数年前にこのおじいさんは

寿命でなくなったが、

この時の年賀状は大事に取ってある。

 

祖父2(母方)の場合・インドで造船

母方の祖父2は

私が2歳くらいの時に白血病で亡くなったので

よく覚えてないし、

戦争中の話もよくわからない。

 

ただ、母によると

昔からリラックスしており、

いつも運がよく、

常識や世間体に囚われない人で

引き寄せ体質だったとか。

 

戦後、無事に帰ってきて、

農作業も家族もほっぽらかしで

そのままインドに造船技術を

教えに行ったらしい。

母方の祖母2も

いいんじゃない

ってなノリだったそうだ。

 

オジ(母方)の場合・空襲時放置

昭和20年生まれ、

生まれてしばらくして

いよいよ空襲が激化して行った。

 

ある日の空襲警報発令中、

なぜか居間に置き忘れられ

他の家族は全員防空壕に避難。

 

うちの親戚は空襲警報発令中に幼子を放置するという傾向にあるのか。

 

なんだか

その氣質が理解できるような氣がする

自分も恐ろしい。

 

祖母2が、

あ、赤ちゃん忘れた!

と氣付く頃には

もう上空にはB29がバンバン飛びかっており、

ヤキモキしたそうだが、

運の良いオジは勿論無事。

 

陽氣で、

霊能者に軒並み

あなたは霊格がとても高い!

と言わしめるような

アイスクリーム好きなおじいさんになった。

 

オバ(父方親戚)の場合・長崎原爆とタンスの抽斗

いつも空氣読めない発言で

その場を凍てつかせるオバ。

でもいつも楽観的で陽氣。

 

このオバは長崎で幼少時に被曝。

爆心地から数キロ離れたところに居住。

 

被曝時は、家の中におり、

ピカッと光った後に、

家中の窓ガラスが全部割れたという。

 

そのすぐ後、片付けの時に

着替えを探すのにタンスを開けたら、

しまっていたはずの抽斗(ひきだし)に

割れたガラス片がびっちり詰まっていたそうで

なんで????

となったそうな。

 

それが不思議すぎて、

周りの惨禍はほとんど目が行かなかったらしい。

 

周りの大人も

誰も答えを知らなかったし、

それどころじゃなかったこともあり

オバの中で

タンスの抽斗の謎はどんどん深まって行った。

 

被曝者手帳を所持しており、

医療費も無料になったのだが、

一回も病氣をせずに

今でもピンピンしている。

 

後から私が調べて分かったことだが、

爆発の衝撃波でガラスが割れ、

タンスの抽斗が全部空いたところに

破片が入った後、

(周りの空氣まで衝撃波で持っていかれた)

真空状態となった爆心地に向かって

今度は吹き返しが来て、

抽斗が全部元に戻ったそうだ。

 

幼いオバはタンスの謎に集中してたこと、

周りの見えない性格から

今も元氣なのだと私は思っている。

 

ちなみにオバの夫は若くして

労災で亡くなり、

オバは労災保険でのほほんと

自由に生活している。

 

 

総じてうちの親戚は

楽観的なタイプが多い。

うちの父は寡黙なタイプなのだが

怒りはその都度爆発させてきたので

そこまで溜まらないのだろう。

流石にバブル崩壊あたりで

胃潰瘍にはなったが。

 

どんな状況下においても

ま、なんとかなるんじゃない?

今までもなんとかなったんだし。

 

 

っていう根拠のない自信は

持っておいた方が後々楽に進むことは

明らかだと思う。

 

我が家では戦争中の話で

暗い雰囲氣になったこともない。

戦争を経験した世代から言わせれば

2020年のコロナ騒動なんて

取るに足りないことだという

ノリなのかもしれない。

 

それではまた!

今日も読んでくれてありがとう

 

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